遠い山の影 ひんやりとした冬の空気が、窓の隙間からそっと忍び寄ってくる。日付が変わる少し前、PCのディスプレイから放たれる青白い光だけが、まだ寝付けずにいる私を照らしていた。今日の仕事は底なし沼のようで、体中の力がすっかり抜け落ちてしまったような感覚だ。「寝た方がいい」「余命はあと二時間」なんて、冗談めかして自分に言い聞かせながら、重たい瞼を懸命に持ち上げる。早く横になりたい。温かい布団に潜り込んで、何もかも忘れてしまいたい。 そんな時、ふと休憩がてら開いたニュースサイトの片隅に、見慣れないリンクが目に入った。「山形市 クマ出没情報」。興味本位でクリックすると、Googleマップ上に赤いピンがいくつも点々と立っている。市街地から少し離れた山間部だけではない。生活道路のすぐ脇、学校の近く、観光名所の周辺……。思いのほか広範囲で、頻繁に目撃されているらしい。 「……こんなにいるのか」 思わず声が漏れた。画面をスクロールするたびに増えるピンの数に、遠い場所の出来事だと分かっていても、なぜか背筋がゾッとする。知らない土地とはいえ、同じ日本で、日常の中にこれほどの野生が潜んでいるのかと、少しばかりの衝撃を覚えた。 今日の昼間、健康診断の採血の際、看護師さんが「綺麗な血管ですね」と私の腕を見て言ったことを思い出した。太く、まっすぐに浮き出た自分の血管をぼんやり眺めながら、針が刺さる瞬間だけ目を逸らした。あの時は、身体が資本だ、とごく当たり前のことを思っただけなのに、今、クマの出没情報を見ていると、私たちの日常がいかに脆く、予測不能なものと隣り合わせなのかを実感させられる。 そして、その夜、何気なく遊んだオンラインのボードゲームでも、クマの話が出た。「テラフォーミング・マーズ」という、火星をテラフォーミングしていく壮大なゲームだったが、誰かが「略してテラフォーマーズとも呼ばれるらしいですよ」と教えてくれた。その瞬間、私の頭の中に、森を闊歩するクマの姿がちらりとよぎったのだ。まるで、今日の出来事が全て、どこかで繋がっているかのように。 赤いピンの地図を眺めながら、以前耳にした話を思い出していた。クマ対策として有効とされる「鈴」。しかし、音に驚いて逃げるクマもいれば、逆に好奇心や警戒心から音のする方へ寄ってくるクマもいるという。クマ避け笛についても、その効果は絶対ではないと聞いた。どれだけ入念な対策をしても、完璧な「安全」は存在しない。その不確かさが、疲れた心には鉛のように重くのしかかってくる。 結局、何が正解なのだろう。私たち人間が自然と共存するとは、一体どういうことなのだろう。そんな哲学的な問いが、疲労困憊の頭を巡る。答えが出ないまま、PCをそっと閉じた。 ダイニングの食卓には、まだすき焼きの甘辛い香りが漂っている。今日の夕食はすき焼きだった。煮詰まって色が濃くなったしらたき、甘みが染みたネギ、とろりと溶けた卵に絡まる肉。家族と囲んだ食卓の温かさが、今になってじんわりと胸に染みる。さっきまでの漠然とした不安も、重い疲労感も、あの温かい香りと味の前では、少しだけ薄まるような気がした。 冷えたコタツに足を入れると、微かな温もりがじんわりと伝わってくる。今日の疲労は、明日の朝まで取れそうにない。けれど、遠い山で蠢く影の存在を知っても、私たちは明日もまた、この日常を生きるのだ。完璧な安全がなくても、ささやかな温かさや、他愛ない会話が、きっと私たちを支えてくれる。私は深く息を吐き、目を閉じた。明日、少しでも体が軽くなっていますように。小さな願いを胸に、ようやく眠りにつく準備を始めた。
