琥珀色のスープとささがき牛蒡 入り口のドアを開けるたび、冷え切った冬の空気が店内に滑り込んでくる。コートの襟を立て、吐き出す息の白さに驚きながら、私はなじみのカフェ「ほとけ」の暖簾をくぐった。店内に満ちているのは、出汁の香りと、誰かの穏やかな話し声。外の刺すような寒さが嘘のように、そこには柔らかな時間が流れていた。 運ばれてきた肉豆腐の湯気が、私の眼鏡を白く曇らせる。指先でフレームをずらし、視界を確保した。琥珀色のスープに浸った豆腐の横で、薄く切られた牛蒡がひっそりと、しかし確かな存在感を放っている。 「やっぱり、これだよ。牛蒡が入っているのといないのとでは、奥行きが全然違う」 私が独り言のように呟くと、向かいに座っていた友人のしーちゃんが、箸を止めて小さく頷いた。彼は最近、少し元気がないように見える。視線がどこか遠く、情報の海に流されているような、寄る辺ない表情を浮かべることが多かった。 「見た目だけじゃなくて、この土の匂いが混じったような香りがいいんだよね」 しーちゃんはそう言って、豆腐を一口運んだ。熱さに少し目を細める。その隣では、ダミンちゃんが所在なげにグラスの縁をなぞっていた。ふとした瞬間、彼女が足元の鞄を取ろうと身を屈めたとき、その膝の曲がり方に妙な違和感を覚えた。関節が通常よりも深く、鋭角に折れ曲がるような、どこか節足動物を連想させる独特の動き。 「ねえ、今の動き、なんだか虫みたいだったよ」 私が笑いながら指摘すると、ダミンちゃんは「そうかな?」と首を傾げた。彼女は自分の身体感覚の変化に対して、いつも驚くほど無頓着で、それでいて楽しんでいるようにも見える。最近はみんな、自分の背丈が急に変わったように感じたり、視線の高さが定まらなかったりと、身体の境界線が曖昧になっているような話をよくする。 話題は、最近巷で話題のテレビドラマへと移った。昭和の無頼な熱量を持つ男と、令和の繊細すぎる人々の対比を描いた物語だ。 「ハラスメントを気にしすぎて、誰も本音を言えなくなっている。正しいんだけど、なんだか息苦しいんだよね」 しーちゃんが、絞り出すような声で言った。彼の言葉には、単なる感想以上の重みがあった。昭和の強引さは暴力的一面もあるけれど、そこには人と人がぶつかり合う活気があった。対して今の私たちは、お互いを尊重しすぎるあまり、透明な壁越しに会話をしているような虚しさを抱えている。 「人生がさ、あんまり楽しくないんだ」 ぽつりと、しーちゃんが本音を漏らした。ネットを覗けば誰かの正しさが溢れ、弱さを見せればそれが盾として利用される。そんな、神経を研ぎ澄まさなければ歩けない現代という時代に、彼は疲れ果てているようだった。 私は返す言葉を探しながら、冷めかけた肉豆腐のスープを掬った。 「じゃあ、明日の朝はみんなでやよい軒に行かない? 何も考えずに、お腹いっぱい白米を食べるだけで、少しはマシになるかもしれないよ」 私の提案に、しーちゃんは少しだけ口角を上げた。 そこからの会話は、堰を切ったように政治の話へと流れていった。先日の国民審査の結果や、各政党の議席の増減。石破氏の掲げる防衛論や、高市氏の経済政策に期待するスピード感。私たちは専門家ではないけれど、この国の行く末が自分たちの生活にどう直結するのかを、真剣に、時に熱を帯びて語り合った。誰がトップになっても世界は劇的には変わらない。それでも、私たちは自分たちの価値観がどこにあるのかを確かめ合いたかった。 夜が深まるにつれ、会話は現実味を帯びた空想へと飛躍していく。 「いつか、高知の山奥に移住するのもいいよね」 「あべのハルカスの屋上でキャンプができたら最高じゃない?」 そんな、明日には忘れてしまうかもしれないような計画を、私たちは宝物のように並べ立てた。屋上から見下ろす街の灯りを想像する。冷たい風に吹かれながら、焚き火の火を眺める自分たちの姿。 カフェを出ると、夜風はさらに鋭さを増していた。けれど、心の中には肉豆腐の温かさと、とりとめもない会話の残響が心地よく居座っている。 「じゃあ、また明日ね」 それぞれが反対方向の夜道へと消えていく。私はコートのポケットに深く手を突っ込み、冬の星座を探して夜空を見上げた。足元はまだ少しふらつくような、不思議な浮遊感があったけれど、明日食べる温かな朝食のことを考えると、心は少しだけ軽くなっていた。
