宙を舞う箱舟 意識がゆっくりと、闇の中から浮上していく。まるで深い水底から水面を目指す泡のように、私の感覚は薄明かりの中を上昇し続けた。やがて、網膜にチカチカと光の粒子が瞬き始め、やがてそれは滑らかな曲線を描くロゴへと形を成す。いつもの起動音、ごく微かな電子音が耳の奥に響き渡ると、光はさらに激しさを増し、一瞬にして目の前の視界が、どこまでも広がる空と、遠くに見える家々のシルエットに切り替わった。 「いよいよ、始まるのか」 自然と、胸の奥にじんわりと熱が広がる。ログインするたびに感じる、この新しい夜の始まり。世界が、扉を開いてくれるような期待感。空気が、まるで別の惑星のもののように澄んでいて、どこからか聞こえる風の音が、今の私の身体を撫でていく。 視線をゆっくりと左に滑らせると、数人のフレンドがすでに集まっていた。彼らのアバターは、それぞれが個性を主張する色彩とフォルムで、この非現実的な風景に馴染んでいる。私は軽く手を上げて合図を送った。向こうもすぐに気づき、数人がこちらへ向かってくる。 「ハル、遅かったな」 「少しね。今日はずいぶん、広いワールドを選んだんだね」 友人の声は、少しだけ低く響き、それでいて親しみやすい。彼らのアバターが近づくにつれて、周りの景色は少しだけぼやけ、会話に集中できるような感覚になる。今日のテーマは特に決めていなかったけれど、この広大な空間に何か惹かれるものがあったのは確かだ。 彼らの視線の先を追って、私も顔を上げる。少し離れた場所に、異様な存在感を放つ物体が浮いていた。それは飛行機というにはあまりにも巨大で、どこか古めかしい飛行船のようなシルエットをしていた。鈍色の金属が、夕暮れの名残のようなオレンジ色の光を反射して輝いている。 「あれ、乗れるらしいぞ。まだ誰も操縦できたやつはいないけど」 「へえ……」 好奇心が、静かに胸の内で膨らむ。私は一歩を踏み出し、その巨大な機体へと近づいていった。間近で見ると、その威容はさらに際立つ。機体にはいくつもの開口部があり、その一つに吸い寄せられるように足を踏み入れた。内部は、思っていたよりも複雑な構造で、まるで古い潜水艦のようだ。壁沿いに並ぶ計器類が、控えめな光を放っている。 やがて、私はコックピットらしき場所を見つけた。無数のボタンとレバーが並ぶ、いかにも操縦席といった趣だ。座席に身を沈めると、目の前の巨大な窓ガラスを通して、先ほどまで立っていた広大な風景が、ぐっと視界に飛び込んできた。 「ギアダウン、かな」 独りごちながら、適当なレバーを引いてみる。すると、機体全体が微かに震え、重々しい音を立てながら、ゆっくりと上昇を始めた。慣れない操作に、機体は左右に大きく傾く。まるで、生まれたばかりの巨大な鳥が、ぎこちなく羽ばたいているかのようだ。 「うわ、っと」 思わず体が前のめりになる。何度か操縦桿を握り直し、モニターに表示される飛行高度と速度の数値を睨んだ。最初は思うように動かせず、何度か近くの建物にぶつかりそうになったが、やがてレバーとボタンの機能が、感覚的に繋がり始めた。この巨大な飛行船は、通常の飛行機とは異なる、独特の重みと慣性を持つ。それを理解できた時、操縦が少しだけ楽しくなった。 私は速度を調節しながら、低空飛行に挑戦した。眼下には、まるでジオラマのように小さな家々が並んでいる。その中の一軒を目標に定めた。いかに精密に、そして優雅に着陸できるか。操縦桿を慎重に傾け、スラスターの出力を微調整する。機体はゆっくりと、まるで羽毛が舞い降りるかのように降下していく。地面が、目標の小さな家が、少しずつ、しかし確実に、目の前に迫ってくる。 数メートルの距離まで迫った時、私は一瞬、息を止めた。そして、さらに速度を落とし、まるで空中に固定するかのように、機体を停止させた。目標の家の、わずか数センチ上を浮いた状態だ。 「うまっ……!」 我知らず、声が漏れた。胸の内に、言葉にできないほどの達成感が湧き上がってくる。計器類が並ぶコックピットの中で、私はまるでプロの操縦士になったような気分だった。 その次の瞬間だった。勝利の余韻に浸る間もなく、私は遊び心でスラスターの出力を一気に最大まで上げた。機体は、私の想像をはるかに超えるスピードで急加速し、「爆速」とでも形容すべき勢いで、空へと飛び出した。 「えっ!?」 景色が猛スピードで後方へと流れていく。しかし、その爆発的な加速に、機体は完全に制御を失った。激しいGがかかり、全身がシートに押し付けられる。機体は錐揉み式に回転し始め、私の視界は青い空と緑の地面とを交互に捉え、やがてそれが一つに混じり合った。 まずい。このままでは、どこかに墜落してしまう。スリルと焦りが混ざり合い、手に汗が滲む。私は必死に操縦桿を握り締め、機首を上向きにしようと、全身の力を込めてレバーを引いた。 ぐ、ぐぐ……。 機体が呻きをあげる。景色が、ゆっくりと、しかし確実な意志をもって、元の水平を取り戻していく。心臓がドクドクと鳴り響き、肺が酸素を求めるように激しく呼吸を繰り返す。 ようやく、機体の揺れが収まった。私は大きく息を吐き出し、乱れた髪をかき上げた。 夜空はすでに深い藍色に染まり、無数の星が瞬いている。あの小さな家は、はるか眼下に豆粒のように見えた。 一人、コックピットの中で静かに夜の空を漂う。あのスリルと、それを乗り越えた安堵が、心地よい疲労感となって全身を包み込んだ。 この空のどこかに、まだ私の知らない、もっと速い乗り物や、もっと奇妙な建物があるのだろうか。 私は静かに操縦桿を握り直すと、ゆるやかに高度を下げていった。まだ、この夜は始まったばかりだ。