画面の向こうの境界線 部屋の隅に置かれたスタンドライトが、かすかに温かい光を落としている。その小さな光は、正面にあるモニターの青白い輝きに、あっさりと飲み込まれていた。夜の帳が降りた後の静寂の中で、キーボードを叩く乾いた音が、規則正しく響く。ヘッドホンから聞こえる友人たちの声が、現実と非現実の境界を曖牲なく溶かしていく。 「──だから、全部で三台だって言ったじゃん」 モニターの中、ウサギの耳を持つアバターが、白いモフモフの腕を大きく広げて強調する。その隣では、どこかの宇宙を旅するパイロットのようなアバターが、頭をかしげていた。 「えー、逆じゃない? 最初に手に入れたのが一台目で、もう二台目に乗ってたから、三台目のバイクの話してたんだとばかり」 「いやいや、一台目はあれだろ、あの『伝説の始まり』みたいなやつ!」 「あー、あの! ちょっとオンボロだけど、妙に愛着湧くやつね!」 まるでそこに本物のガレージがあるかのように、彼らは画面の中で身振り手振りで語り合っている。バイクの台数。バーチャルな世界での乗り物の話。主人公は、そのやり取りを静かに聞きながら、キーボードの上で指を滑らせた。 「……もし、0台って選択肢があったら、どんな感じなんだろう?」 画面の向こうに小さく文字を打ち込むと、パイロットのアバターがくるりとこちらを向いた。 「0? どこにも行けないってこと?」 「うーん。自分で持たないって選択肢、かな」 ウサギのアバターが、考え込むように首を傾げる。 「あ、でも、誰かの後ろに乗せてもらうとか、そういうのもアリじゃない? それはそれで、何かバレなくてもいいこと、とか、あったりするのかな」 その言葉に、主人公の指がピタリと止まった。モニターの反射光が、瞳の奥で揺れる。 「バレなくてもいいこと」。 バーチャルな世界の話なのに、なぜか、心臓が小さく跳ねる。まるで、画面の向こうの友人が、自分の内側にある秘密を覗き込んでいるかのような錯覚に囚われた。本当に、バレなくていいこと、なんてあるのだろうか。あるいは、バレてしまっても、実はたいしたことではないと、どこかで願っているのだろうか。 「──ま、いっか! バイクの話は置いといて、そういえば、今日の晩ごはん何食べた?」 ウサギのアバターが突然、話題を変える。その無邪気な切り替えに、少しだけ肩の力が抜けた。 「俺、今日はうどん! そしてうどんごはん!」 パイロットのアバターが笑いながら言う。 「うどんごはん? それって……」 「そう、全部炭水化物! ヤバいっしょ、これ」 画面の中のアバターが、両手を合わせて苦笑いしている。 「わかる、わかるなあ。たまに無性に炭水化物しか食べたくない日あるよね」 主人公も、思わず笑みがこぼれる。確かに、今日の自分もそんな日だったかもしれない。手元のマグカップに残った冷めたお茶を一口飲む。日常のささやかな偏り。それは、バーチャルな世界での会話を通して、ふと気づかされる現実の自分の一面だった。 話はそこから、地元の名物「芋煮」の話題に移り、さらに謎の食べ物「チルモン」や「オサネチルモン」といった単語が飛び交い始める。画面の中の彼らは、食べ物の話になると、一段と楽しそうだ。その声を聞きながら、主人公はふと、現実の食卓の暖かさを思った。 時計の針が、もうすぐ日付が変わることを告げている。 「じゃあ、そろそろ、おいとましようかな」 パイロットのアバターが、名残惜しそうに手を振る。 「うん、また会いましょう!」 ウサギのアバターも、ぴょこんと耳を揺らした。 「おやすみなさい」 ヘッドホン越しに、優しい声が響く。主人公は、静かにログアウトのボタンを押した。 モニターが真っ暗になり、部屋に再び静寂が戻る。スタンドライトの温かい光だけが、唯一の明かりとなった。ヘッドホンを外し、椅子にもたれかかる。 「マジ、少ないなあ……」 誰に言うともなく、ぽつりと呟いた。何が少ないのか、自分でもよくわからない。バイクの台数だろうか。それとも、心の余裕、だろうか。あるいは、「バレてもいいこと」の種類が、まだ自分の中で少ないと感じているのかもしれない。 それでも、今日の会話は、決して無駄ではなかった。バーチャルな世界の他愛ないやり取りが、現実の自分に小さな波紋を投げかける。その波紋は、少しばかり心を揺さぶり、しかし最後には、微かな問いと、明日への期待のようなものを残して、静かに消えていく。 きっと、明日の「何か」は、今日よりも少しだけ多くなっているだろう。 主人公は、ゆっくりと立ち上がり、スタンドライトのスイッチを消した。
