琥珀色の記憶と、真紅の塔 視界の端で、デジタルの時計が静かに数字を刻んでいる。深夜、あるいは早朝と呼ぶべき時間。現実の部屋は暖房の微かな稼働音だけが支配しているが、私の意識が置かれたこの場所には、祝祭の前触れのような、どこか浮き足立った熱気が満ちていた。 空を仰ぐと、巨大な真紅の塔が夜の帳を切り裂くようにそびえ立っている。その側面には精緻な意匠のエンブレムが掲げられ、時折、淡い光を放って周囲を赤く染め上げていた。十メートルを超す巨躯を持つ者から、膝元をすり抜けていく小さな影まで、ここには多様な存在が等しく集い、言葉を交わしている。 「今年の九十一パーセント、か」 ふと漏らした言葉は、誰に聞かせるでもなかった。 一年の振り返り、手元のデバイスが示した統計データ。私の活動時間の九割以上が、この拡張された空間で行われていたという事実。八年前、初めてこの世界に足を踏み入れたとき、これほどまでにここが「自分の一部」になると確信していただろうか。 「何をそんなに感傷に浸っているの?」 隣で友人が笑った。数時間後には一つ歳を重ねる彼。その横顔には、いくつもの冬を越えてきた者だけが持つ、落ち着いた余裕が漂っている。 「いや、データの再現性について考えていただけだよ」 私は努めて冷静に返した。心理学にせよ、経済モデルにせよ、私は「個人の感想」という揺らぎやすい言葉をあまり信用していない。何千ものサンプルを精査し、メタレビューを経てようやく導き出される、あの無機質で誠実な真実こそが、私の思考の錨(いかり)だ。だが、この九十一パーセントという数字が示すのは、そんな論理的な私でさえ、数値化できない「縁」や「居心地の良さ」に、人生の大部分を預けているという矛盾だった。 「大阪万博のときも、そんなこと言ってたよね」 別の友人が会話に加わる。記憶の扉が不意に開いた。 四月の初週。春の陽光を期待して訪れた会場は、予報を裏切る真夏日の熱気に包まれていた。アスファルトが陽炎を上げ、喉を焼くような渇き。特定のパビリオンを待つ長蛇の列に、論理的ではないと溜息をつきながらも、ふと目に留まった小さな国のポスター。そこに描かれた異国の色彩、知らない街の匂い。 外周のリングを歩きながら眺めた景色は、データの海から救い上げられた、ただ一つの「確かな体感」として今も網膜に焼き付いている。 「ドイツにいた頃もそうだったな」 私は独白を続けた。 内陸部の静かな街。魚が何よりも貴重だったあの場所で、ようやく見つけた寿司を口にしたときの、あの言いようのない寂しさ。それは「寿司」という記号を模しただけの、魂の抜けた味がした。私はそれ以来、現地の日本食に期待することを止めた。 けれど、その代わりに覚えているものがある。石畳を抜けてくる焼きたてのパンの、鼻腔を突く香ばしさ。あるいは、アボカドと豚バラ肉を強引に合わせたマグロ丼もどきの、奇妙に調和した脂の甘み。 「正解かどうかなんて、結局はその瞬間の自分が決めることなのかもしれないね」 友人が塔を見上げながら呟く。 話題はいつしか、現代社会の歪みへと移っていった。都市化が進み、隣人の顔さえ知らないまま育児の重圧に押しつぶされる人々。かつての農村にあった共同体の機能は、今や失われつつある。 けれど、視線を巡らせれば、ここにはアバターを介して社会と繋がり、不自由な身体の制約を超えて誰かを笑顔にする人々がいる。かつての農村が持っていた温かな相互扶助の精神は、最先端の技術という皮を被って、この仮想の地平に再構築されているのではないか。 ふと、SNSのタイムラインを思い出す。 ヒステリックな感情のぶつかり合い、論理を欠いた言葉の礫(つぶて)。私はそれらを丁寧にブロックし、自らの精神を隔離してきた。冷たい人間だと思われるかもしれないが、それは自分自身の平穏を守るための、最も誠実な選択だと思っている。 「……そろそろだね」 誰かの声が、重なり合う思考を現実へと引き戻した。 真紅の塔が、ひときわ強く輝き始める。塔の頂近くに掲げられたエンブレムが、カウントダウンの合図のように明滅した。 誕生日の前夜祭。 大人の余裕を見せていた主役の彼が、わずかに照れくさそうに、けれど誇らしげに周囲の祝福を受け止めている。その表情は、どんな精緻な経済モデルよりも雄弁に、「今日」という日の価値を物語っていた。 私は一つ、深く息を吐いた。 九十一パーセント。それを「現実逃避」と呼ぶ人がいても構わない。 かつてのドイツで嗅いだパンの匂いと、今ここで友人たちと交わす笑い声に、本質的な違いなどないのだ。どちらも私の皮膚感覚に深く刻まれ、私という人間を形作っている。 空に光の花が咲くような幻覚を見た。 おめでとう、という声が重なり、夜の静寂を心地よく溶かしていく。 明日もまた、データと理論の海を泳ぎながら、私はこの不確かで愛おしい場所に帰ってくるだろう。 少しだけ軽くなった心で、私は真紅の塔を見上げた。 冬の夜気はまだ冷たいが、手元のコントローラーから伝わる微かな振動が、不思議と体温のように温かかった。
