モニタ越しの経済論 静かな夜の帳が下りる頃、私は慣れ親しんだヘッドセットを手に取った。液晶画面に映し出されるのは、普段の部屋とはまるで違う、奇妙な仮想空間。「VR療法」と名付けられたそのワールドは、ピンク色の巨大な豚のオブジェが中央に鎮座し、壁一面には無数のカラフルなボタンが所狭しと並んでいた。 「ぶ、ぶぅー……」 どこからともなく聞こえる間の抜けた鳴き声に、思わず口元が緩む。目の前で、フレンドのアバターがその豚の背中にひょいと飛び乗って、私に満面の笑みを向けていた。 「まさか、こんな豚さんが『療法』してくれるなんてね」 私がくすくす笑いながら声をかけると、別のフレンドが「風邪のウイルスも寄り付かない安心空間、ってことかな?」と茶目っ気たっぷりに応じる。現実ではインフルエンザが流行し始めているというニュースを目にしたばかりだったが、この仮想空間ではそんな心配は無用だ。マスクも不要、咳をしても誰にも迷惑をかけない。そんな解放感が、私たちの会話をより弾ませた。 話題は自然と、季節の変わり目に感じる身体の不調へと移っていった。 「最近、鼻がムズムズするんだよね。もしかして、この時期ってブタクサの花粉?」 「あー、それ私も! VRだと花粉もないから助かるけど、外に出ると現実を突きつけられるんだよね」 全員がアバター姿で寄り集まり、まるでカフェで隣り合って話しているような錯覚に陥る。物理的な距離がゼロだからこそ、そうした些細な会話が心地よく響くのだ。 そんな他愛ない話の合間に、誰かがAmazonの期間限定ポイントの使い道について悩んでいると漏らした。それがきっかけで、ふと現実の経済状況や、日々の生活にまつわる話へと話題が傾いていく。 「最近ね、折りたたみスマホがすごく気になるんだ。中古なら5万円くらいで手に入るって聞いて」 私がそう切り出すと、皆が興味を示した。 「ああ、Galaxy Foldとか? 開けばタブレットみたいに使えるんだよね」 「そうそう。電車の中でニュースを読んだり、電子書籍を開いたりする時は大画面で見たいし。でも、改札を通る時なんかはサッと折りたたんでポケットに仕舞いたい。あのコンパクトさって、想像以上に便利なんじゃないかなって」 指先で何かを折りたたむような仕草をしながら説明すると、目の前に広がる豚のオブジェや奇妙なボタンの光が、未来のガジェットへの期待を乗せてキラキラと輝いているように見えた。新しい技術が、日々の生活をどう豊かにしてくれるのか、そんな空想に浸る時間はいつも楽しい。 年末年始の旅行計画の話では、「船に乗りたい」という友人の言葉に、皆がそれぞれの旅の記憶や憧れを語り合った。 「フェリーでゆっくり揺られながら、海を眺めるのもいいよね」 「私、昔、34時間かけてフランスまで船で行ったことがあるよ。さすがに途中で飽きて、寝て起きて、また寝て……って感じだったけど」 長距離移動の苦労話には、全員が大きく頷いて共感を示す。仮想空間にいながら、私たちは遠い旅路に思いを馳せていた。 その時、ふと自分のPICOヘッドセットの不具合を思い出した。 「最近、バーチャルデスクトップがうまく起動しなくてね。4Kモニターを使ってるせいか、PICOでの表示品質が落ちるのが少し不満なんだ」 最新のVRデバイスが提供してくれる、限りなく現実のような高精細な映像体験。その一歩先への期待は、尽きることがない。 「あ、そういえば、山形は水が美味しいから地酒がいいって話、覚えてる? 年末年始に重いけど、買って帰りたいなって」 次々と飛び出す現実世界の話題に、いつしか私たちはこの奇妙なワールドにいることを忘れかけていた。 話は尽きることなく、私たちは次のワールドへ移動することになった。ダミンちゃんが主催する「年収バトル集会部」という、これまたユニークな名前のワールドだ。そこには、学部別の年収ランキングがリアルタイムで表示される大きなボードが立っていた。 「お、動いてる動いてる!」 数字がめまぐるしく変動するのを、皆で食い入るように見つめる。 「やっぱり工学部が強いね。日本の基幹産業を支えてるもんね」 「物理系も高いんだ。意外と需要があるのかな?」 ランキングの変動に合わせて、アバターたちが一喜一憂する。まるで目の前で株価が動いているかのように、皆の視線はボードに釘付けになった。工学系や製造業といった、まさに日本の経済を支える分野が上位を占める傾向にあることに、私たちは改めて納得する。 「これって、その国の経済構造がそのまま反映されてるってことだよね」 私の言葉に、誰かが深く頷いた。知的な好奇心が刺激される、充実した瞬間だ。 話題は次第にスケールアップしていき、イーロン・マスクの給料がロボタクシーの実現で150兆円になるかもしれない、という途方もない話に及んだ。 「え、150兆円!? もはや想像もつかない金額だね」 私たちはただ、その数字の巨大さに呆れるばかりだった。 「すごいね……私たちも、ロボタクシーに課金して、このランキングで上位に食い込みたいものだ!」 誰かの冗談に、皆がどっと笑い声をあげる。仮想空間ならではの軽やかな笑いが、ボードの無機質な数字を少しだけ柔らかく感じさせた。 しかし、再び現実の経済に視線が戻ると、少しばかりの不満が口をついて出た。 「日本のキャッシュレス決済って、還元率競争が激しすぎて、逆に面倒だよね」 私は、つい本音を漏らしてしまった。 「そう! どのカードがどの店でお得なのか、期間限定ポイントの期限はいつまでか、いちいち考えるのが手間なんだよ」 皆も同じ思いだったらしく、口々に不満を訴える。シンプルで分かりやすいサービスが増えてほしいと、心から願ってしまう。お金自体に強い物欲があるわけではない。けれど、こうした経済の仕組みや社会の動向について、友人たちとあれこれ意見を交わすのは、いつも私を夢中にさせる。 「そういえば、レモネードにビールを入れると美味しいって知ってた?」 誰かが、突然全く違う豆知識を披露して、私たちの間に再び和やかな空気が流れた。 尽きることのないおしゃべりを楽しみ、やがて時間も深まった頃、「そろそろおやすみかな」と、自然と声が上がった。 「じゃあ、またね」「おやすみー」 アバターが手を振る。仮想空間の温かい光の中で、私の心は少しだけ軽くなっていた。モニターの向こう側で、現実と非現実がゆるやかに溶