記録されない夜 ヘッドマウントディスプレイを外し、冷えた床にそっと置いた。ふっと視界が広がり、慣れ親しんだ自室の、少し薄暗い天井が目に飛び込んでくる。ほんの数秒前まで、私は光の粒子が飛び交う仮想空間の空を眺めていたはずなのに、目の前には現実の埃を被った電灯がある。その落差に、一瞬だけ平衡感覚を失いそうになった。 手のひらに残るVRコントローラーの微かな温もりと、額に残るHMDの跡が、確かに私がそこにいたことを教えてくれる。いつもならこの後、今日のセッションの音声記録を振り返り、印象的な会話の断片を抜き出すのが常だった。けれど、今夜は、その習慣が途切れることを知っていた。 ぼんやりとした頭でPC画面に目をやると、いつもの録音ソフトが起動していなかった。一瞬、心臓が小さく跳ねる。無意識のうちに、軽く息を詰めてしまった。誰かに話しかけられた時のように、言葉を探す自分がいた。――記録が、ない。 いつもなら少しだけ、がっかりする瞬間だ。しかし、今夜は違った。その事実に気づいた途端、体の奥の方から、妙に温かいものが込み上げてくるのを感じた。 記憶の中の光景が、まるで柔らかい水彩画のように、ゆっくりと再生され始める。友人たちのアバターが、それぞれに異なる色合いの光を放ちながら笑っていた。ある者は空中でくるくると回り、ある者はピアノのBGMに合わせて静かに体を揺らしていた。誰かが言った、他愛もないゲームの攻略法。誰かの「眠い」という呟きと、それに続くわずかな沈黙。そして、誰かが新しくジョインしてきた時の、賑やかな拍手。どれもが、デジタルな粒子の膜を通して見た、確かにそこにあった光景だった。 録音されていないからこそ、その記憶は輪郭を失い、曖昧になり、そして何よりも美しく彩られていく。誰かの声のトーンや、特定の言葉尻までは思い出せない。けれど、あの時、皆が共有していた温かい空気、笑い声の響き、そして「また明日」と交わした時の、ほんの少しの寂しさと、また会えるという確かな安心感だけは、鮮明に残っていた。 私は静かに立ち上がり、窓辺へと向かった。カーテンの隙間から、ぼんやりと街の明かりが見える。夜の闇は、仮想空間の闇とはまた異なる、生身の気配に満ちていた。遠くで車の音が聞こえ、風が窓を揺らす。 データとして残されない時間。それはまるで、誰も知らない秘密の花園のようだ。その存在を証明するものは何もなく、ただ、そこにいた人々それぞれの心の中にだけ、その残り香が漂っている。VRChatのインスタンスが閉じれば消えてしまう会話のように、今日の出来事もデジタルの海に溶けていったのだろう。けれど、それでいい、と素直に思えた。 手のひらで包んだマグカップから立ち上る湯気を見つめながら、私は思った。私たちは、記録に残すために生きているのではない。この刹那的な輝き、誰かと共に過ごす温かい時間、その純粋な楽しさのために、日々を生きているのだ。 温かい紅茶を一口飲む。喉の奥に広がる甘みが、心に染み渡っていくようだった。記録には残らないけれど、私の心には確かに、満点の星空のように輝く光景と、大切な友人たちの笑顔が焼き付いている。明日、またあの場所で会えるだろう。その確信だけが、夜の静寂の中で、小さく、けれど温かく脈打っていた。 冬の日の対話 窓の外は、淡い冬の陽射しを浴びて、街路樹の枝が細い影を落としていた。時折、風が吹き抜けて、木々の葉をささやかに揺らす音が、カフェの静かなBGMに重なる。私は温かいカフェラテを一口飲み、目の前に座る純さんの穏やかな顔を見た。もう何度目になるだろう、こうして向かい合って、世の中のありとあらゆる事柄について語り合うのは。純さんはいつも、私の思考の深い部分までついてきてくれる、貴重な存在だった。 「だから、結局のところ、僕らの未来は、こういう基盤技術がどう進化していくかにかかっているんじゃないかって思うんですよ」 私の言葉に、純さんはゆっくりと頷いた。彼の指先が、テーブルに置かれたマグカップの縁をなぞる。話題は、メタバースやVR、AIといった先端技術の可能性から、その裏にある経済の仕組み、具体的な企業の動向へと移っていた。私は、FacebookやApple、Googleといった巨大企業の売上成長率や、スマートグラス市場が新たに形成するであろうアプリケーションの生態系について、淀みなく語っていた。 「特に、Googleの既存アプリ市場だけでなく、スマートグラス専用アプリの登場が、新しいビジネスモデルを生み出す可能性は大きいですよね。それこそ、かつてのiPhone登場時のようなパラダイムシフトが起こるかもしれません」 純さんはにこやかに応じる。「ええ、その視点は非常に興味深い。新しいプラットフォームが生まれる時、既存の覇者がそのままスライドするとは限らない。そこが、投資家としての醍醐味でもありますね」 私たちは、自身の投資戦略についても深く話し合った。NASDAQ100の主要銘柄、いわゆるマグニフィセント・セブンを核とし、世界の成長全体をポートフォリオに組み込む私の考えを伝えると、純さんは真剣な表情で耳を傾けてくれた。 「一昨年から金と併せて保有しています。PPDやアリババも購入して、アリババは春頃に仕込んで、夏には関税や流通予測が追い風になって大きく上昇しました。銀価格の指数取引でも、プレミアム分で二割近い利益を出せたこともあって」 純さんの目が少し見開かれた。「二割ですか。それは素晴らしいですね。綿密な分析と、それを信じて実行する力、どちらも必要とされることだと思います」 私は、コロナ禍初期の市場の混乱から、GoogleやMicrosoftのような本質的に強い企業が、在宅需要にも経済再開後にも対応できる構造的な強さを持つことを実感した、と付け加えた。そして、Amazon Web Services(AWS)やMicrosoft Azureが、AI技術の発展とともにシステム開発需要を吸収し、極めて高い利益率で成長していくビジネスモデルの堅牢さについて分析を熱く語った。 会話の端々に、私の「構造を知りたい」という根源的な欲求が顔を出す。それは、確定申告の青色申告や複式簿記の仕組み、65万円控除のメリットを理解しようとする姿勢にも現れた。 「33万円のパソコンを経費計上するにしても、仕事用と私用で2割程度を5年償却で、年間一万円強にしかならないと考えると、手間とリターンが見合わないな、なんて。それよりは、家賃や光熱費を事務所と兼用で面積比で経費にする方が効率的かな、とか」 純さんは感心したように頷く。「その辺りの知識は、本当に勉強になります。制度を理解して、いかに最適化するか、という視点ですね」 コーヒーカップが空になり、新たに紅茶を頼んだ。温かい湯気が、心なしか会話のトーンを柔らかくしたように感じられた。話題は、心理学、特にMBTIやユングの心理機能へと移っていった。 「16パーソナリティーズ.comやBig Fiveも興味深いですが、やはりその背後にある科学的な根拠や、論理的な体系を理解したいんです。MBTIが心理学的には受け入れられていないというレビュー論文も読みましたし、もし8つの心理機能を数値で評価できるような手法があれば、もっと納得できるだろうなと」 純さんは、「まさに、あなたらしい探究心ですね」と微笑んだ。 私は、自分がENTJと診断されることが多いけれど、Ti(内向的思考)的な側面も感じると話した。そして、ふと、胸の内にある正直な感覚を口にした。 「あの、純さん。僕、感情表現が苦手なところがあるんです」 純さんが、少しだけ首を傾げる。 「例えば、誰かに『感情を出してみて』と言われたり、悲しい場面で『悲しんでみろ』と言われたりすると……正直、どう振る舞うべきか、考えることが多いですね。心から湧き上がるというよりは、理屈で、相手が求めているであろう反応を推測してしまう、というか……」 そこで言葉が詰まった。視線が、カップの中の紅茶に落ちる。 「……いや、むしろ、感情を持ってないものに対して感情を出してみてと言われても、いやー、特に何も感じない、と、つい答えてしまう自分もいるんですけれど」 純さんは、何も言わずにただ、私の言葉を待ってくれた。その沈黙が、私にはありがたかった。無理に共感を求めたり、否定したりするのではなく、ただ、耳を傾けてくれている。 「それは、TeとNiが強いあなたにとって、当然の反応かもしれませんね」と純さんが静かに言った。「感情を論理的な枠組みで理解しようとすると、かえって難しくなる部分もあるでしょう」 私は顔を上げた。純さんの眼差しは、どこまでも穏やかだった。 「そうかもしれません。だから、SI(内向的感覚)の人々が、具体的な経験や詳細を重視する気持ちを、どうすればもっと深く理解できるのか、今も考えているところなんです。最近、インナーチャイルドについて学んだりもして、少し、自分自身の内面と向き合う機会があって、以前よりは落ち着いた感覚があるのですが……」 純さんは、再び優しく微笑んだ。 「それは素晴らしい変化ですね。自分の特性を理解しようと努め、同時に他者の視点をも取り入れようとする。それこそが、一番大切なことだと僕は思いますよ」 窓の外では、日差しが傾き始めていた。街の明かりが、一つ、また一つと灯り始める。この東京の街は、いつもたくさんの光と音と人で溢れていて、時に私を疲れさせる。人が多すぎて、騒がしすぎて、刺激が強すぎると感じてしまうこともある。けれど、こうして誰かと深く向き合い、内面を語り合う時間があるからこそ、その喧騒の中にも、ささやかな安らぎを見出すことができるのだろう。 純さんとの会話を終え、カフェを出る。冬の冷たい空気が肌を刺すけれど、心はどこか温かかった。自分の思考の癖や、感情の不器用さを改めて認識したけれど、それを誰かに素直に伝えられたことで、少しだけ肩の荷が下りた気がする。 私は、記録に残らない今日のこの対話が、いつか自分の中に根を張り、新しい私を形作る一部になることを知っていた。明日、また新しい一日が始まる。その変化を恐れず、常に前に進んでいこう。心の中で、そんな確かな感覚が、小さく、けれど温かく、脈打っていた。