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NOVEL / 物語

Novel 20251205

この文章は記憶をもとに後から物語として書いた創作です。日記や元の会話・写真そのものとは区別して読めるようにしています。

接続のための余白  金曜日の夜の空気は、どこか炭酸水のように弾けている。  使い込まれた木製のテーブルの上には、結露したグラスと、手持ち無沙汰に置かれたスマートフォン、そして誰かの真新しいゲーミングノートPCが鎮座していた。間接照明が、友人の掛けている眼鏡の端正なフレームを鋭く、かつ柔らかく縁取っている。 「その眼鏡、いいな。よく似合ってる」  私がそう言うと、彼は少し照れくさそうに指先でブリッジを押し上げた。そんな些細な仕草さえ、この賑やかな夜の一部として心地よく馴染んでいく。  話題は、いつの間にか空の旅へと流れていた。  一人が語ったのは、ドーハの空港での長い長い乗り換えの記憶だ。 「実質は十時間もなかったはずなんだけどさ、体感では十七時間くらいそこにいた気がするよ」  彼は笑いながら、スマホの画面を見せてくれた。そこには、砂漠の真ん中にあるとは思えないほど瑞々しい、巨大な「森」が空港の中に広がっていた。天井のガラス越しに差し込む光を浴びて、緑の葉が呼吸している。 「この木を見たとき、なんだか救われた気がしたんだ。無機質な空間の中に、ちゃんと生きてるものがあるっていうだけで」  その言葉に、私の背中の奥が微かに疼いた。  数年前、ミュンヘンへ向かった時の、あの十三時間のフライトを思い出したからだ。離陸してわずか三時間。まだ先は長いと分かっているのに、座席の感触が耐えがたいほど硬く感じられ、心のどこかで「もう降ろしてくれ」と叫んでいた。  空を飛ぶという非日常は、時として肉体から情緒を奪い去る。 「次は、絶対にどこかで刻もうと思うんだ」  私はグラスを揺らし、溶けかけた氷の音を聞いた。 「一度地面に降りて、外の空気を吸って、自分をリセットする。効率だけを考えたら無駄かもしれないけど、その余白がないと、心が目的地に追いつけない気がする」  会話はさらに、デジタルの海へと潜っていく。  かつて熱狂を呼んだメタバースの話題。なぜそれは、私たちの生活を劇的には変えなかったのか。 「結局、スマホみたいに『片手間』にできないからじゃないかな」  誰かがポテトチップスをつまみながら言った。 「VRゴーグルを被るのは、ある種の儀式だ。でも僕たちが求めているのは、もっと生活に溶け込んだ、どうぶつの森みたいな緩い繋がりなのかもしれない」  窓の外では、街の灯りが冬の夜気に滲んでいる。  高価なアフタヌーンティーの値段に目を剥いたかと思えば、ディスカウントスーパーで見つけた数十円の飲み物に小さな幸せを見出す。京都の五百円もする清潔な有料トイレで、一時の静寂を買い取ったこともある。  私たちは皆、価値の振り幅の激しい世界で、自分なりの「丁度いい場所」を探して彷徨っている。 「でもさ」  眼鏡を褒められた彼が、少し真剣な顔をして言った。 「今年、映画館である作品を観て、最高に泣いたんだ。あんなに心が震えたのは久しぶりだった。やっぱり、効率とか利便性の先にある、圧倒的な何かに触れたいっていう気持ちは消えないんだよね」  おめでとう、よかったな、めでたい。  金曜日の締めくくりに相応しい、前向きな言葉たちがテーブルを囲む。  誰かの投資がうまくいった話や、新しいPCのメモリをどうするかといった即物的な話題でさえ、今夜は祝祭の合唱のように聞こえた。  店を出ると、冷たい夜風が火照った頬を撫でた。  次の旅は、どこへ行こうか。エジプトのピラミッドの下で、歴史の重みに圧倒されるのもいい。それとも、またあの緑の生い茂る空港で、ゆっくりと時間を溶かすのもいい。  空を見上げると、ビルの隙間に薄く雲がかかっていた。  十三時間の孤独なフライトではなく、どこかで一息つきながら進む旅を。  私の心は、少しだけ軽くなっていた。明日という目的地に着く前に、まずはこの夜の余韻を、ゆっくりと味わい尽くしてから帰ろう。